【RK(20代後半女性)の声】卒業文(2022年4月) 

学んだこと
先のことを考えすぎず一日をとりあえず乗り越えることを大事にするようになった。今ではバイトも始めて、作業して無事に帰ってこられたらよしとしている。出荷センターに初めて行った時よりかはだいぶ進歩したと思う。
ただ未だに体力はない方だし、夜ふかししてしまうこともあるし、無気力になる時も多い。
張り切って何かしようとするも、つまらないことに意志を挫かれて気分が急降下することもある。
手をつけてみたら簡単に出来てしまうこともあるし、手を動かしてもどうにもならないこともある。
衝動的に用事を先取りして片付け、何もない状態で気兼ねなく好きな時間を過ごしたいと思う時もある。
張り切ったことの大体はうまくいかないし、なんならすべきことを片付けるだけで日が暮れて電池切れになってしまう。
これらは全て不安と焦りと極端な思考からくるもの。少しでも改善するようにとノートに気持ちを書き出しながら自分と向き合っている。だが解決までの道のりはまだまだ長そうだ。
けれど仕方がない、急ぐことを諦めて少しずつ後ろ向きにでも進むしかない。 「一気に進もうとするからキツくなる」と自らに言い聞かせつつ歩いている真っ最中。 いつになるかは不明だけど歩くことが楽になればいいと思ってる。

気づき
さてノートに書き出したことで発見したことも書いておきたいと思う。
私は頻繁に言いようのない焦りを感じることがあった。漠然とした焦りに名前がついていた方が対処しやすく落ち着くのでこの状態を「終わらないマラソン」と勝手に命名している。
この状態に入ると様々な課題が目の前に現れ次に行くことで頭が一杯になる。課題が終わる頃には楽しく過ごした記憶は薄れ、疲れた体と上手くこなせなかった自分だけが残される。
これが続くとなると精神に負担がかかり過ぎるし、人生的にも楽しくないのはもったいないので頻繁に「終わらないマラソン」状態に陥る原因を考えることにした。

自分の感情や出来事を適当に書き出しつつ「終わらないマラソン」状態になった時の行動を振り返ってみる。すると他人のペースを気にして同じ速さや質で物事をこなせない自分を認められず失敗ばかりに目がいっていること、そこからとにかく何でも他人と比較して深く落ち込むことを繰り返していることに気がついた。要するに比較癖が染み付いていたのだ。
比較対象は条件が何もかもが違う赤の他人、落ち込むに至る根拠とするのは自分が培ってきた価値観(他人から植え付けられたものも含まれる)であるということもはっきりとした。

「あの人はこのぐらい簡単にこなしてるのに」
「それに比べて私は…」

そればかりが頭の中を占めて渦巻き、自分で自分を傷つけ続けていたのだ。
ここまで書き出してみて何故私にはここまで酷い比較癖があるのか、というのが俄然気になった。そしてどうしてここまで「気にしい」なのかということも。
私の落ち込み方は、他人の視線や動向をいちいち気にして自分にダメ出しをするまでがセットだ。同時に他人に対して先回りしてやらなくていいことまでやって勝手にキャパオーバーしてしまう。ただでさえ私はキャパが少ない方なのに余計な仕事まで抱え込むのだ。
これらの行動を当初は自分を律したり人のことを思いやったりするために身つけた物だと思っていた。けれどそれらは深く掘り下げれば掘り下げるほど全く違うものに形を変えていった。そして最終的に傷つきから身を守るための戦略だったことがわかったのだ。

私は幼い頃我慢していれば丸く収まると考え、嫌なことも嫌と言えないタイプだった。上手く感情を言葉にすることができなかったり、輪を乱したくないと思う気持ちが強かったり、発言や行動に対する恥の感情が強かったりと色々抱えたものがあった。
その中でとにかく悲しいとか苦しいとか苦痛を伴う感情を無視し続ける傾向にあった。
そうするといつしか傷が知らないうちにいっぱい増えて、新しく傷つくことが余計に怖くなった。今まで一部の感情を無視していたので異変に気がつくわけはなく、漠然とした辛さを感じるだけ感じて終わってしまうのも当然と言えた。

傷つくたび今まで見ないふりをすればなんとかなったものを思い出して直視する恐怖と、新しい傷を他人からつけられてしまう苛立ちや行き場のない怒り、過去についた古傷が開く痛み。
これ以上痛みを広げず、傷つきたくないから先に他人と自分を比較して自分の粗を探し出して貶めることで予防線を張っていたのだ。下げるところまで下げれば傷つく痛みは最小限で済むと思い込んでいたから。

同時に予想外に傷ついた時の立ち直り方や受け流し方を学ばずにいた為、対処法もないままとにかく傷つかないことが最優先事項になった。
その為に人の言動を監視してどうすれば相手がこちらを傷つけないかを伺い、ひたすら相手の正解を探る行動をするようになる。気を遣うというより、傷を広げないようにする為の戦略だったのだ。冷静に考えてみれば他人の正解なんて当てようもないのに。
長年戦略を使用し続ける内に赤の他人の動向がなによりも大切になった。つまりその戦略が自分の価値観の真ん中に置かれ固定されるようになったわけだ。そこから酷い比較癖と病的なまでの「気にしい」は生まれて来た。
生きるため深く染み付いたものから生まれた「終わらないマラソン」は自分と向き合い意識して立ち向かわないことには永久に終わるはずがなかったのだ。

人に気を遣ったり、傷つきたくないと思うことそのものは大事な感覚である。ただそれは正常な範囲の内であればの話だとノートに書き出してから感じた。
とりあえず「終わらないマラソン」は今だけ終わらない、が取れて普通のマラソンになった。
自分のペースで走ってよし、歩いてもよし、疲れたら休憩してよし、行き先は生きやすい穏やかな道である。
なのでそろそろ感情の名前を変えてみようか考え中だ、ネーミングセンスは皆無だけど。
ただ今は辛さの原因が何なのか少し解明されたので過去の自分よ、頑張ったと声をかけてあげようと思う。
人から追われているのではなくて、人ばかりをみて自分を追い立てているのは自分であることを気がつけたのは大きい。
これからもマラソンからまた「終わらないマラソン」に姿を変えた感覚は時々やってくるはずだ。
それがまたやってきた時は余程疲れてるんだな、休もうと思えるくらい軽くやっていきたいものである。

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